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日々のタワゴト                  

世阿弥最後の花 他

▼2022年2月2日(火)

  五時過ぎ目覚め。(寝ている間に若干「逆流」したっぽいイガイガ。)六時起床。お弁当はコロッケ、高菜、トマト、ほうれん草お浸し、カニ棒、味噌ピー、甘酢生姜など。

  謎解きイベンター(?)女性のセブンルール観ながら遅めの朝食ロールケーキと紅茶。娘たちがコナンや金田一少年に夢中だった頃は、ほぼ楽しさが理解できなかったのに参加者の様子を見るうちに謎解き宿泊楽しそうと思った。

 DVDのハードディスク空きが少ないし……と消せずにいたNHK俳句を消去しようと思った。その為に(入選句を書写するの、またやろう)と思い5回分か6回分書いてみた。流石だ。いいなあ!と思ったり、いいのかも、いいのだろか?と思ったり。相変わらずの俳句迷子だ。まあ、迷子でなくなったら私も終わりだ。

 図書館から予約していた新潮2021.10月号が準備できたとメールが来ていたようだ。なんか新しい携帯になって以来益々メールに気付かないこと多し。通知する設定なんだが。

 そして文藝の返却期限なので絲山賞の藤沢周作品を読んで返さなくては。確認すると読みきれそうだった。能の世界とかワシにゃあ難しいのう…とエンジン掛かり辛く寝かせてたんだが、いざ読み出すと精緻で幽玄な描写に始まり、観阿弥世阿弥父子の物語でもあり、伝統芸能の継承の話でもあり人は如何にこの世に存在するかという話でもあった。文体自体に姿勢の良さや、あの能独特の摺り足の移動のようなブレなさなどが感じられた。最後に藤沢さんのこの作品の後記。殊に以下の部分に感銘を受けた。

 

 この作品を描くにあたって能を自らの身体に通したいと、観世梅若流の謡と仕舞を稽古するようになったが、ほんのわずかな動きにさえも森羅万象とつながっているのを体感する。また、全方位と自己ぎりぎりの均衡そのものが、「在る」ということなのだとも。

  森の中や、苔むした山の中、海に浸かっている時、星空を見ている時、遍路でひたすら歩いている時などこのような心境になることがある。クッキリハッキリ自分が存在すると言うより、この世のあらゆるものと細胞膜一枚しか隔たらない処に、それらのちっぽけな一部分として居させてもらっている感じが。

 読んでよかった。

 食堂でミニカレー(230)

雲行き次第で公園を歩こうと思っていた。青空が残っていた。A公園へ。

 

 寒かったけど気持ちよかった。やたらとヒヨドリが囀り、鳥見初心者の自分には他の鳥の気配を感じるのが難しかった。

 (コガラ、ヒヨドリ、トビ、ヤマガラシジュウカラオオアカゲラツグミ

 

ウールインナー上下を身に着けていなかったので最後はとても寒かった。5710歩。f:id:okkachan:20220203004210j:image