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日々のタワゴト                  

<最後っ屁?>



昨日までのことは、ぶッちぎって、素知らぬ顔で歩き始めようとも思った。けれど、やはりけじめとして、なんとなく書いてみます。

辞める発言に対し、「残念だけど、しょうがないですね」「この形で辞めるのは納得がいかない」「どうしたの?」etc.の反応を戴き…自分でも説明できない感じでした。

何故、辞めたいと思ったのか…。なぜだろう?

心の中の何かが「嫌だ!」と言ったので。

あたしはやっぱり「自由」がいい!と叫んでいたので。

ことによっちゃあ話し合いは嫌いじゃないんです。顔をキチンと見て語り合えるなら。

言葉の力を信じていないわけでもありません。でも私は人がそんなに簡単に誰かの痛痒を理解できるとは思わないのです。ものすごく悔しいのに悔しさを表すことが悔しくてへらへらするカッコつけもいます。親の言い分はなんだか解らないけど丸く収まるから泣いてしまおう。という子どももいます。そばにいるなら・・そんな呼吸がどこかしら伝わります。

自分の人生に責任を取るのは本人だけ。傷つけるかも知れない覚悟をしても物申すならば。せめて相手が今自分の一言で何を感じているのか、しっかり見つめながら語りたい。たとえば理不尽な誰かの行動を批判したとして、話の途中で震えながら泣いている人を前にしたら…それでも、さらに言い募るだろうか?次から次から、私はこう思います。いいえ私はこうです。いやいや、本当はこうだろう?それは・・・・・私ならば心の許容範囲を越えます。そういうことです。(今回は幸いにして、彼には、みんなの「誠意」がちゃんと伝わった。だから結果オーライでした。)

自分にとっての万人日記は「私は私の人生を」「あなたはあなたの人生を」歩いているのをときどき横目で確認する。確認しながら共鳴したり、一緒に微笑んだり、「なぜなんだぁー!?」と心の中で思ったり、時には、ともに涙したり、私は、それで充分だったんです。うまく、誰かとなにかで一致できると、とても嬉しい。だけど「自分と違う何かに憤る人」「自分と違う花を愛でる人」に「いいやこれの方か綺麗だよ」と言うのは自分流ではありません。善意だけれど押しが強い人、心から自分を信じるられる人は眩しすぎて、もともと苦手なのです。

そして、もちろん、こうは思わない人もいます。

それで、自分は余所にいる方が良いな。そう思いました。美しくはないかもしれない決断でしたが、そう思いました。

そう、たったいま「おでん」さんの書き込みで思い出すことができました。わたしのHPの掲示板は「いいっぱなし掲示板」といいます。