溶けかけた雪だるまが気になってしょうがない。気に入っていたガラスの器はヒビが入っても捨てられない。いつも、そんなところがありました。
「人はそれぞれにいびつである」
これが、かねてよりの私の持論です。広辞苑には「いびつ」とは【形状が整わずゆがんでいるさま。】とありますが、人間を見限ってそう思ったのではありません。これは、人間賛美の言葉のつもりです。
たとえば映画『レインマン』の中で、自閉症のレイモンドが、3組のカードを片っ端から記憶し、いかさまをする下りがあります。とてつもない能力です。しかし、彼は又、決まった生活パターンを壊されるとパニックを起こしたりします。これを、一般的には精神面で“異常”があると表現したりします。
また、シルヴァスタインという人の絵本『ぼくを探して』という作品があります。丸の一部が欠けた形の「ぼく」が足りないかけらを探す旅に出る。いろいろな出会いがあり、やっと、足りない部分を見つける。だが、結局「ぼく」はピッタリのはずの、そのかけらを捨ててしまう。どうして?
私自身ずいぶんいびつな形をしています。「もういや!こんな自分とおさらばしたい」何度こう思ったことか。殊に、物忘れの激しさと来たら表彰もの。温泉の脱衣所に忘れたパンツを取りに行った恥ずかしさよ・・・。
しかし、私は生きています。恥を忘れただけではないと自負します。
積年の自己嫌悪を救ったのは、紛れもない一つの事実でした。「このいびつさは、私だけのものなのだ。私一人が持つ形なのだ」いつしか開き直りではなく、そう思えるようになりました。
だって、人間ってみんないびつなのだから。常と異なるのだから。 欠けたところがあると、ボールのように真っ直ぐには転がらない。あっちへぶつかり、こっちへぶつかりゴツゴツ進む。しかし、その分走行距離は長くなる。誰かの気付かなかった何かを気にとめるチャンスがある。
欠けたるは 存することの 証とて
いびつなガラス器 慈しみおり
溶けかけた雪だるまは嫌いですか?