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日々のタワゴト                  

生びとフェチ

▼11/8 

深夜、目覚めケータイ画面のtwitterにて佐野洋子さんの訃報を知る。来るべき時が来てしまったか・・・と唇を固く結ぶ。

佐野さんの著書を一通り炬燵の天板に並べてみた。様々なところに本が散在する家で、あるはずの本で見つからないモノも多々。絵本は、手元には一冊もない。

本の雑誌の昔々掲載されたものや、それをまとめた『佐野洋子の本』や改題して文庫化された『がんばりません』をパラパラ捲り、解説だけは、全部読み返す。おすぎも、三木卓も、高橋源一郎も、川上弘美も、群ようこも、彼女のある部分を鋭く切り取っている。だが最もハッとしたのは佐野さんを「異星のひと」と題した亀海昌次さんという方の文章だった(講談社文庫『乙女ちゃん』)。専門学校時代玄関で座ってグズグズしていた亀海青年。突然、身も知らぬ佐野洋子が「あたし今から家に帰るの。あんたはいつ帰るの」と話しかけ(なんだお前は。オレはお前なんぞ知らないぞ。お前だってオレを知らないだろう。なんだってそんなことをオレに言うのだ)、と思った。これを「それは衝突だった。」という、その言葉!

別の世界があるんだよ。

彼女はそういったのに違いない。ぼくはそう受けとめている。それほど新鮮で鋭い衝突だったのだ。そして佐野洋子はぼくにとって「うまく解釈しようとしてはならない」ひととなった。

うーん。そうかぁ。異星のひとだったのか。もう一つ挙げるならば谷川俊太郎さんの解説も、さすがに見事だった。(光文社『恋愛論序説 S61)頑ななまでに論理立てずに感情を文章化するヒトである。と敬意を表している。たしかに氏が抜粋した「鈴木さんに頭をなでられた九歳・初夏の場面」嬉しいでも悲しいでも薄気味悪いでもない気持ちの泡立ちの表現は見事というしかない。

佐野洋子は自分の感ずるものを、正直に事実として認めるところから出発する。性急に名を与えたりしない、整理整頓しない。−中略−秩序の奥にある混沌を、仮借なく描き出している。それはほんとうのことであるがゆえに、私たちを不快にすらさせかねない。

そして私は、一番古い集英社文庫『私の猫たち許してほしい』S58発行240円−を手に取り再読をした。

一度だけサイン会会場で姿を拝見した。白髪の短髪が素敵だった。カラシ色のトックリセーターで、首には革紐の携帯灰皿をぶら下げてらした。遠くからそのシュッとした男前な佇まいを「やっぱり佐野洋子はいいなぁ!」と眺めた。

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これで「はてな」プロフィールに挙げた好きな作家が全て故人となってしまった。気が付くと私のオールタイムベストは全て随筆を書くヒトだ。自分の雑記好きを自覚したのはゴク最近。小説も書く作家でも好きなのはやはり随筆。ナゼダロウ。四六時中気持ちの側に生な人間が居て欲しい人間餓鬼なのだろうか。好きなテレビも圧倒的にトーク番組なのだ。うっとうしい人間である。

夜は鬢長マグロとタコ。長芋とろろの鉄板焼き。タラコ。発泡酒360三本。「webちくま」の文章で好きになった杏の回なので情熱大陸。Hシダドラマをやっていて40分待ち。真摯な人となりは伝わったが、ミュージカル初舞台が中心。私としては物足りなかった。