さかい。区域。「隣家との―」「―線」
《解字》
会意兼形声。竟キョウは「音+人の形」の会意文字。また、「章(音楽のひと区切れ)の略体+人」と考えてもよい。人が音楽の一楽章を歌い終わって、区切りをつけたさまを示し、「おわる」と訓じる。境は「土+音符竟」で、土地の 区切り。
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近頃は遠近両用の老眼鏡なんてのもあるし、国民は九割方中流だし親と子も教師と生徒も“タメ口”だし男と女の区別も相当曖昧だし、何事にもボーダレスな時代です。
時代がボーダレスはいいとして私の頭の中のボーダレス現象の方が問題です。こちらも、遠近両用、天地無用、味噌も糞も一緒状態なのであります。境目がないのです。必要な情報はこっち、これはこっちと取り出せない頭。
忘れていいこと、たとえば…24年前トイレ掃除で蝿の死骸が山ほど集まったとき「佃煮でもできそうだね」という言葉に「そんなもの、つくだにーよ」という洒落が多美ちゃんにすごく感心されたこととか、28年前、A君のジャージが白で水色のブリーフがいつも透けていたこととかは、いつまでも覚えていたりする。
にもかかわらず、覚えておかなければならない事、たとえば今日の自分の持ち物が何々なのか、自分がゴミステーションのネット出し当番に当たっているとか、は忘れてしまったりするのだ。
自分の脳に残っている情報から要らないものはドラッグしてゴミ箱に入れ、必要なものは整理して虫干しして箪笥の引き出しにしまう、自分はもう使わないけど誰かには役に立ちそうなものをリサイクルしてもらう、なんて脳の大掃除ができればよいのに。
この「す」の入ったような脳味噌(ヤコブ病か?)と、今後数十年どう付き合ったらよいものだろう。こんな人間にボケが来たとして、家族の者はどうやってそれを見つけるのだろう。境目が難しい。