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日々のタワゴト                  

紀の国をゆく 二日目 

▼2017.3.23


2017.3.23 (木)馬越峠

0545 起床 日の出待ち
     風呂
     朝食
0803 アルティア鳥羽発
0930 道の駅 海山(かいざん)
1005 出発
1018 峠への道出発点 体操他
1042 出発
1110 上遠野先生に遭遇
1349 アルペルゲ山帰来
1456 尾鷲神社
1523 道の駅
1552 駅発
1737 浦島駐車場
1817 南紀勝浦 ホテル浦島

遠足前の子どものように明日の熊野古道散策が楽しみでほとんど眠れずに朝。チェックインの際に「明日の日の出は0553」と伺っており、この絶好のオーシャンビューでそれを見逃す手はない。とばかりに仲間のけたたましきアラームで0550行動開始。スマホを持って待ち構えるも生憎の曇天。それでも薄っすら紅のお日様が雲の向こうにはおられたことを確認。一服したりのまったりタイムを過ごし朝の入浴。からのバイキング。




くまの体験企画さんのガイド植野さんと道の駅海山にて10時待ち合わせ。鳥羽アルティアを8時過ぎ出発。時計を見い見い高速を走る。トンネルの連続に「これは相当お金のかかった道だやね」と主婦的実感。

駐車場に入るや否や、すでにそれらしき車がいるのを発見。

隣に停めてご挨拶。

まずは無料貸し出しのデイパックや杖、ポンチョを借りて荷物を詰め込む。

ヘッポコな我々三人は何事もスムースに行くことがなくアレを車に忘れた、帽子がないなどと代わる代わるかまびすしく準備。事前予約した熊野古道薬草弁当を一番に詰める。スタート地点でしっかり記念撮影もしていよいよ歩き始める。

熊野古道の中でも象徴的に美しい石畳は実にフォトジェニックな佇まい。

植野さんの美声で早速驚きの事実を知る。十数年前に世界遺産登録された、この道が僅か三、四十年前までは、完全に藪に埋もれていたというのである。ひとりの酔狂な先生が古道を調査し「間違いなく此処に学術的史実的に重要な遺跡が眠っている!」と確信して学生らの人海戦術で十何年間がかりで掘り出したのだと、、。

始めた当時は地元の人々にも全く理解されず「なにやっとんのやろ。アタマおかしいんちゃうか?」と奇異の目で見られるばかりだったのだと。

まずは千年以上以前に熊野詣でや、生活上の必要に迫られ膨大な労力をかけて石を切り出し土を掘り並べこの道を作った人々がおり、その道を往来した人たちがいた。しかし、土木開発に技術が進み。もっと大きな使いやすい道が出来あがり、遺産は埋もれ、熱き思いを持った後の世の人がその埋もれた過去を昭和の高度成長期に蘇らせたのか…。本当に凄い。何れにしても人が此処に生きていた!千年昔の人も、三百年前の人も掘り起こした四十年前の人も同列なのかも。皆なにかしらの「祈り」を持って生きていたんだろう。平成の世に生きているこの価値ある遺産にもっと多くの人に触れて欲しいとガイドをして下さっている尊い方々も、はるか北海道の地から物見遊山で来たしょうもないおばちゃんの我々も立っている同じ場所に存在したんだな、ということが面白い。一人残らず産まれて生きて老いて死んで行った。私達もまた。。。その累々たる積み重なりよ!なにこのスゴサ!厳かさ!それを目にする楽しさ!




第1ポイント夜泣き地蔵。


話は、まだまだ続きますが、読み返したらワシ矢鱈に語ってるやんけ!←ココまでFBに書いた分。


美しい馬越峠(まごせとうげ)への石畳をゆっくり歩きながら、ガイドさんに様々なお話を伺う。

「この石畳を敷くのも大変だったでんでない?」
「ここに使われている石は、すぐそばから切り出したと言われています。たとえばあの岩を見てください」と言われ、見ると明らかに何かの手段で切られたような形の岩がそこかしこにあるのだ。ほお。。。

蘇る神々の道  熊野古道 馬越峠

ここ馬越峠は「くまのみち」と呼ばれた熊野街道の一部で、明治以来大正6年までは県道であった。-略-麓から峠までの約二キロメートルの大部分は、敷石によって路面が舗装されていて、今もほとんど完全に昔の面影をとどめている。敷石は大きく平らで、現存する石畳道のなかでも端正な表情が際だっており、施工した便の山の石工の技術がうかがえる。石は麓から運び上げたものではなく、全て現地調達されたという。


なるほど。これは面白い!

最初のポイント「夜泣き地蔵尊」がこちら。


もともとは普通の旅人の無事を願うお地蔵様だったのが、近隣の女たちが子どもの夜泣きを封じる願いをかけたことから夜泣き地蔵と言われるようになったものらしい。祠の上には、ここを通った人々により小石が積まれ、一時は倒壊しかけたこともあったとのこと。いつのことか元々のお地蔵さまは何者かに盗まれ、今では代わりに地蔵に見立てた石が置かれている。

ゆるゆると坂を上り、ところどころでガイドの植野さんが面白い豆知識を披露してくださる。私が杉木立と思ったのは実はヒノキで、そこでは落ちている小枝を拾って穂が稲のように付いているのが杉で、平らに葉が広がっているのがヒノキと教えていただく。昨日の宿でお造りの下に敷かれていたのがヒノキの葉だったのだ。殺菌の作用があったということ。

このあと、ヒョイと見ると娘の恩師の姿が!「上遠野センセー?!」と叫ぶワタシ。ポカンとする他の面々。なんと美術系高専時代に上の娘がお世話になった先生とここで。。FBで先生が私より二日前に紀伊半島にいらしていたのは知ってはいたけれど。

センセイは全国の神仏を訪ね歩き記録されている。他にも閉山した赤平炭鉱跡で学生たちとともに長年活動されている方。ひそかにソンケーしている一父母でした。びっくりびっくり。



道々伺った「馬越峠」の呼称も馬子背、間古背他いくつかの表記があって、由来も二つの山の間を越すという意味や、その形が馬の背に見えたという説などがあるらしい。

今は枯れてしまったが桜の木のもとにあったという桜地蔵もなかなかの風情。

途中、植野さんから興味深い日本の聖地の五芒星エピソード。わー!わたしたち昨日は伊勢神宮六芒星の話で盛り上がっていたんですよ。と星のマーク話。なんか、なにかと繋がる。

馬越公園にて注文してあった熊野薬草弁当をいただく。

道端に生えていた薬草の香りも嗅がせていただいた。少し揉むととても良い香り。

それらがふんだんに使われている古道お弁当。頼んでよかった。

たまたまあった「おわせ節」の碑を見て「ぜひ一節!」とせがんで歌っていただいたのも、実に良かった。哀愁のある歌。

おわせ節 中唄
お前とならば/どこまでも/奥山の/猿かけいばらの/中までも

滝の下にある馬越不動尊もお詣りした。
季節によっては水が多くて橋を渡るのも大変らしいが気持ちの良いマイナスイオンを浴びながら我々はお詣り。

植野さんは今回ガイドをお願いした
「くまの体験企画」
熊野古道エコツアー くまの体験企画
のサイトでガイドさんプロフィールからカミーノ踏破された方と知り是非とお願いした経緯もあって、その辺のエピソードなどもたくさんうかがえた。

目的地を過ぎて人里に近づくと墓地を通りかかり、北海道のお墓とは違うたたずまいなども目に付く。今では他所の地から来た人も増えて変わってきたけれど、このあたりでは花を供える習慣は元々はあまりなく、シキミという榊ににた枝を飾るのが習いだったそうだ。シキミの語源は「悪しき実」で毒を持つために、土葬のころに亡骸を動物に荒らされないように備えたのが始まりとか。


この熊野古道周辺でトレイルランなどもなさっているとのことで、その関連で熊野古道保存に関わる多くの方々ともおつきあいがあるようで、林業に携わる方などと触れ合う中、一年二年という目の前のことだけではなく、五十年六十年先も見据えた古道のあり方という視点も得たのだと。。。

歩き終わって植野さんのお友達のカフェに立ち寄りお茶。

こちらを経営されている川端さんは60代でカミーノを歩かれたご夫妻でたくさんの写真を拝見することができた。自分もいつか行ってみたいという気持ちに、ますます火が付いたというか力を得た出会いでした。

待ち合わせ場所で体験企画の内山さんに拾っていただき道の駅に送っていただ。

道すがら植野さんが道中私が話した親類の話をウッチーさんに聞いて下さった。亡くなった私の伯父が尾鷲でみかん園をしていたけれど今は地元の方に託しているようだ、という話をしたところ「・・・ほなら天満かな?」とおっしゃる。「そうです!尾鷲市天満って住所でした!」と旅立ち前にいとこから聴いておいた記憶がよみがえる。「近隣の人やらで百人の会というのをやっていて、そこでとれたみかんでピールを作ったりカフェをやったり地域ぐるみの活動をされているとのこと。遠い北の地からやってきたイサちゃん(父たちはこう呼んでいた)の仕事が一粒の種となって人々が活動をしているとは!なにかウレシイ確認もできて、やはり導かれてきたのかも。。。父さんに報告しないと。としみじみする。