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                      タワゴトです。

 海にゆれて村上春樹

▼4/11~4/12

某日

目覚めてテレビを点けると、そこは水の中。

マツマサウオ

シマコウイカ

オキノスジエビ

トビエイ .........

「night 月夜の海」という文字
カメ
月 (青い)
千の手を持つイソギンチャク
イバラタツ
カミナリイカ
フクイカムリ
蛍光色斑点をまとったミミイカ( 大きな目) 日本の触手で、上手いこと自分に砂をかける。最後に残るのはポコンポコンととび出した愛嬌のある目
ウシノシタ
一本の立派な角を突き出し悠然と進む貝
棘のある小さなタコ。貝殻を二個運び自分を挟む形で砂に立てる。数度砂をバキュームし貝に挟まって雲隠れの術。風呂敷を持って身を隠す忍者の様。
番組が終わり、私のお腹の底には、水のユラユラだけが残されている。
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某日:一晩迷った挙句書店へ。
『色彩を持たない
多崎つくると、
彼の巡礼の年』購入。

ちょっとだけパチンコを打ち、3000円ぷらす位で帰宅し、本を開く。今回も、育ちは良いが根を張ったたくましさとは無縁の青年。どこかクレバーで趣味の良い「こころもとない感」のある主人公だ。隔靴掻痒が村上春樹の御家芸であって、読者である我々はそこを楽しむ。ミステリーのように、具体的な謎・・・たとえば「殺人者は誰なのか!?」というクッキリとした謎ではなく、「何かが解らない」しかし、その「解らない何か」が何なのか、それも茫漠としている状態で物語は進んでゆく。かつて私は村上春樹を「床上手文学」と呼んだけれど、今回もその感を深めた。実際に性描写が出てくる前も、それは前戯。読者は「むずむずむずむず」する。「核心」には、なかなか触れられない。だから昂揚する。これは(上手な)SEXそのものでしょう。

かつて偉人(それは私です)は語った。「あなたが一番触れたいところには、じらしてしらして最後の最後に触れたのか触れてないのかの微妙さで、そっと触れましょう。それが黄金の指」

俗に処女作には作家の永遠のテーマがある。と云われる。『風の歌を聴け』にはこうある。

ハートフィールドが良い文章についてこんな風に書いている。
「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」

更に、ノートのまん中に線を引き右と左に得たもの失ったものを書き出すという文章が続く。

どんなに長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。
僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。

村上春樹の小説に於ける謎は、いつもそこだ。自分が自分に至る道を掘りおこすこと。自己分析によって「美味しい料理、美しい音楽、気持ち良い性行為」で飽き足りぬナニカを見ようとすること。これはきっと万人の渇望だ。
私は、それを充分楽しんだ。

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高校時代からの仲間とのかめむし会にて泥酔。奇行に走る。情けないが、それでも大きなカタルシス。この仲間に、理由を明かされず絶縁されていたとしたら、私は多崎つくるどころではない絶望に生きていられないことだろう。