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 日々のタワゴト                  

卑猥舌



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毎日が日曜日だというのに、正々堂々と昼まで寝る。いや、せめて10時くらいまででもドッカリと寝るってことをしたことがない。中高年の悲しいサガって奴だろうか。一度でイイから十時間くらい眠って前日の疲労というヤツをトロトロに溶かし、そして蒸発させキッチリ勝負を決めてみたい。そして「嗚呼、此こそが夾雑物を含まぬ真のクリアな私であると感じられることよ!」と、目覚めの瞬間に感じ入ってみたいものである。どんなにか爽快であろう。だが、現実は使い古した濁ったオイルが六〜七割方入った車のように、マフラーからブスブスと煙を出しながら起き上がり、そして朝食や弁当をこしらえ、食べ、歩き、遊び、読み、おさんどんし、食べ、呑み、洗い、疲れ、読み、眠る。そして、翌日も・・・・・・。というキッチリと勝負をつけられぬ日々の連続である。それこそが私を私たらしめているのかもしれないが。疲労の繰り越し残高が。

今読んでいる本に、ちょいと面白いことが書いてあった。『なぜ人は朝目覚めた時に、自分が誰であるのかを疑わないのか?何故に、「この自分」は、昨日の「あの自分」と同じであると思えるのか』はははぁ、言われてみると頷ける問いかけではある。脳科学というのは面白いモノだ。皆、己がわからない。はたまた、わからないかと思えば、わからないのに体はチャンと知っていたりする事例も多いようだ。ヒトはどのように歩いたら良いのかということを言語化できなくとも「歩き方」は忘れないし歩ける。当たり前と言っちまえば当たり前ではあるが、なぜなのだろう?かなりのポンコツと思っている我が脳ではあるが、それでも随分と知らぬうちに私が生きていくことを助けてくれているのだろう。カントは、毎日決まった時刻の散歩を習慣としており、「街の人々は彼の姿を見て時刻を知った」とも言われるらしい。それは、意外にカント暇人!って話じゃなく、散歩は「哲学」について思考するための重要な時間だったということらしい。

十年位前の日記にも書いたように思うが、「ろうそくの炎を見る」「たいこを叩く」「踊る」「謡う」「マントラを唱える」「経を読む」「呼吸法」というようなことが瞑想の一つの方法であるように、ヒトによっては散歩にもそういった精神統一の効能があるのだろうと思う。おそらく強制的に一つのことに体を向かわせ、熱中(?)することで、脳のとある部分は雑念を離れ自由を得る。そういうことなのだろうと、素人なりに思う。それほど五感を働かせ生きてることは煩雑極まりない。

で、だからといって凡人の自分はウォーキング中、ナニカについて深い思考を巡らせるということは、まずない。だから、i podやラジオの力を借りて目的もなく歩くことの空虚感から救って貰っている。で、本日は昨日、podキャストの人気ベスト10かなんかに入っていた杉浦某の「卑猥舌」なるものを聴きつつ歩いてみたのであった。これが、どうしてなかなか良いではないか。一つには、まず時間が長い。90分ある。そして、なんたって性に関する話というのは人々の好奇心を引く(っつうか自分の)。聴き始めは、(なぁんだかイマイチいけ好かない話っぷりだなぁ)等と思ってはいたのだが、彼には、ある種の「性の求道者」精神、いわば性交道師範!的なニオイを感じたのである。曰く「脇毛は、ちょっと残っている位がよい」。曰く「多少臭気がある方が」針が振れる。曰く「なめぬならなめらせるな」。とか、やや変態じみた嗜好があるとはいえ、自分は女性を減点法では見ない。加点法で考える。なんてところが、気に入った。それで、とりあえず第一回のを、落としてみた。明日はこれを聴きながら歩くとしよう。でも、他にも楽しそうなのをいくつか登録したのでソッチに走る可能性も大。