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 日々のタワゴト                  

命について

▼2017.9.23 土曜日

4時台に目覚める。ラジオ深夜便では、往生要集について、どなたかが話しておられる。「如何にして往生すべきか」大昔の人も現代人と変わらぬことを考えていたのだ。

林真理子の老人小説は、まあ、言ってみればリアルであるがために、なんとなく気が重く楽しくない。これを読み終えたら愈々もって“角田源氏”に入るか。しかし、まったく読み切れる気はしない。

見たいTVも聴きたいラジオもない時、ふと永六輔の「誰かとどこかで」を思い出しYOU TUBEにて何本か聴いてみた。あの人らしさ醸し出す空気は亡くなった今もそこに確かに残っている。ある日の例の冒頭の詩が胸に迫った。

六月の詩 崎南海子(正しくは大が立という文字)

命は淋しいと それは言葉ではなくて
光になって体を通過しました
生まれたアゲハ蝶が 濡れた羽で
飛んだ瞬間に それは一瞬に
細胞のひとつひとつを
清らかに洗いました
樹が 蝶が 空が 私が 世界が一緒に
ドクンと 鼓動しました

窓辺の 桃屋の空き瓶に
小さな虹🌈

* * *

土日は検査がなく、子ども家族、下の娘、夫と日帰り温泉

いつ死んでも良いと思っていたはずが
(やはり、もう少し この子達を近くで見守っていたい)そんな自分を確認した日でした。