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日々のタワゴト                  

2015年8月

忙しさに紛れ気が付けば、お盆。

12日河原の想像を絶する草を刈ってきたくの後、シャワーを浴びて実家へ。満を持してラミーキューブを開封。これは児童会館で働いていた友人が面白いと言ってカメムシ会で五十代女子がワイワイとハマったドイツ生まれのゲーム。マージャンとセブンブリッジ、大富豪を合わせたような面白さ。私の目論見通り小2の子も大人も同次元で大いに盛り上がった。日が変わりそうな頃、いつまでも遊びたがる子をなだめ「また明日出来るからね」と終了。勝負好き遺伝子に牛耳られた系類達よ。。みんな楽しそうだったから、結局私は一回しか出来なかったが後ろから茶々入れて楽しんだ。正月にはこのゲームでお年玉を巻き上げたろう。ニシシ。

翌日は一族のお墓参り。

朝、父が今年亡くなった叔母の孫に
「ババがな、赤ん坊をおんぶしてニコニコしてる夢を見たんだぞ」と、話して聞かせていた。盆の入りに相応しく、(ねーちゃん元気なんだな)なんて、思ってしまった。

家に帰り、昨夜のカレー明日のパンを見た。ギフが登山をする回。

亡くなった人や、縁が途絶えた人はこの地球の何処かに居て共に生きていると思えば良いのだ。と、いうセリフに涙。大事な存在をもぎ取られたように悔いている位なら、そんな風に哀しみと折り合いを付けるのは賢いし正しい気がする。亡くなったって心には存在するのだもの遠くで生きていて、もう会えない会わないのと一緒かも。逆に言えば目の前にあるモノもいつか消えて無くなる。頼りない私達は幽霊位に頼りなき存在と生きて、ゆらゆらと一喜一憂してる。コレって般若心経の言わんとしている事ではなかろうか。

この境地を心底会得出来てたら今頃ココに居やしないかっ…。

半眼で座禅してるように物事を見つめられたなら、どんなにか苦しみや悲しみも薄まる事だろう。まあ、所詮モノゴトを近くから感じ過ぎて一生ワーワーぎゃーぎゃーして行く未熟な俗物なんだけれども。

お盆休み最終日はジュラシックワールドを孫とジジババでヘンな3D眼鏡をかけ鑑賞。一番良いところでゆらゆらして来たのでジジ抱っこを薦めた。案の定お祖父さんの腕にてアルマジロのようにくるりと丸まって眠ったあの子がめんこくてめんこくてほっこりした。

毎日マイニチ様々なことに様々な思いを抱きくらしているというのに、時が経つと全部サラサラと零れ落ちている。

激務で汗をダラダラと流し、それが目尻の皺を伝って目に入ると本当に滲みる日々。

オノレの未熟にヒリヒリと気持ちもイタイ日々でもある2015夏から秋。(ここで北の国から 純のテーマ)
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