■ 日 日 夜 夜 ■

日々のタワゴト                  

言葉なんて なにさ!

言葉なんて なにさ!

言葉なんて 何の役にも立ちやしない!

そう毒づいても、その無力な言葉に頼ってしか

物事を考えられない囚われの身….。


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ねえちゃんが死んでしまった。


2月17日のこと。

いよいよ臨終も近くなりICUから個室に移動して間もなくだった。看護師の方々が搬送を終え、荷物を入れるのを待っている間のこと。呼吸停止。別の二人の姉はわずか1〜2分の差で臨終に間に合わなかった。


病室に孫のコウちゃん6歳の「ババー!ババー!」という泣き声、私の絶叫、連れ合いの嗚咽、娘の泣き声。。。そこに姉たち。



長く患ってはいたし、度重なる入院で、私は時おり病院を覗いていた。2/3も、そんな調子でひょいと行ってみると容態が急変していたのだった。発熱、血圧降下、見当識がつかぬ状態。そのつい三日前は私の次の遍路のプランなど普通に小一時間も雑談をしていたのに。


ねえちゃんは私より10歳上。父方の祖父と、その再婚相手との間に生まれた子だった。だから血縁上では伯母にあたる。幼くして相次いで両親を亡くし、同じ両親から生まれた兄も4歳で事故で失い、ウチの両親の元で育った。

当時我が家は貧乏で父も母も働いていた。ねえちゃんは小学生のうちから、私とすぐ上の姉の子守りをしていた。友達と遊びたくても私たちが邪魔で遊べず、とうとうある日洋服ダンスに下の姉を仕舞って遊んだこともあった。と、泣き笑いの昔語りを何度か聞かされたものだ。


どういうものか神様は次々と姉の大切な人を奪ってしまう。自身の上の娘も5歳にして病で亡くした。


そんな家族運の薄い姉だったが、人一倍家族を大切にし、コツコツと働いた。十六年前に乳ガンの摘出施術をしてからは、積極的に自分の楽しみを見つけては芝居、コンサート、旅行など満喫していた。自分のため…というのは勿論だが、残るもの達が自分の人生を憐れまずに済むように、これで良かったのだと思えるようにしてくれた気がしてならない。


私が、言葉のない夫の愚痴をいうと『60歳のラブレター』という私には、どうにも面映ゆいような妻から夫へ夫から妻への書簡集を全冊プレゼントされてしまった。13冊もどーするよ…コレ。と途方に暮れる分量だった。義理で半分は読んだ記憶。これから残りもちゃんと読むからね。と遠い遠い国の姉に向けて呟く。

多くを望み過ぎず添い遂げよ!という姉ちゃんのメッセージは心に留めておく。

こうして、何を記そうと呟こうと、降りかかる事象は変わらない。我々にできるのは、時間を掛け、砂を噛むようにして、それを受け容れることのみ。


苦しそうに呼吸をする姉ちゃんの頭を撫で、腕をさすり、(偉かったね)(頑張ったね)そんなことを言ってみても、私には何一つ変えられることはなかった。

無力感に苛まれようと、出来る事はしたのだと思おうと、そこにあるのは非情な事実だけ。私は据わりの悪い己の気持ちを都合良く分析し解釈し明日も生きてゆく。

今日訪問したケアマネージャーさんに、老父は

「まあ、生きている間は生きていきますよ」と自嘲気味に語った。父さん、私も「右に同じ!」だよ泣こうが喚こうが、それしかできないのだ。


その悲しい日に仕事の契約更新出来ずという知らせまで届き、陰々滅々な一日になってしまった。



けれど葬儀への道中『子どもはわかってあげない』という漫画を読んで私は笑った。笑って笑ったことに泣いて、また笑って。どうやら、あれほど憎んだ言葉(と絵)は、たしかに、ひととき私を救ってくれたみたいだ。

無力でご都合主義の言葉たちを憎み、駄々っ子のように「おまえなんかおまえなんか、もう知るもんか!絶交だ!」と思ってみたけれど、やっぱり言葉をよすがにしてしか考えられない。少しだけ言葉と距離を置いて、言語的自己を嫌悪しつつも、いつもの自分でゆけたら・・・と願う。