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日々のタワゴト                  

ぼんやりとここにある

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わたしがいなかった街で

わたしがいなかった街で

どうも私は、どんな小説を読むときも、チューニングを合わせるような目には見えぬ操作をしている気がする。この小説の場合、ガーとかピーとかチューニングが合わせにくい。最初は、なかなか話に入り込めなかった。

冒頭「1945年まで広島でコックをしていた祖父」が登場したかと思えば、「世田谷区若林に三年、墨田区太平に五年」住んでいた経歴があり、引っ越したばかりで学習塾所長をしている女主人公砂羽が登場する。

そして、その友人有子と彼女の五歳の息子が手伝いに来て、有子の彼氏源太郎も出て来る。そうかと思えば写真教室で出会った得体のしれぬ「中井」という男も登場。しまいにや海野十三という古い作家の日記が出て来る。他にも登場人物だけでも、クズイ、クズイの妹、加藤美奈、元夫の健吾、入江さん、音信不通の兄・・・。まるで昔あった手持ちカメラで撮影された映画のようだった。どこに焦点をあてて読めばよいのか混乱する。これも、すべて著者の意図するものであったのだろう。なにしろ現実とは雑多なものだ。

ある日、暑くも寒くもない薄暮の時間に道を歩いていて砂羽は思う。この日常こそが自分の幸福でこれ以上のスペシャルなことは起こらないし望んでもいないのでは。けれど、これはよく言う「些細な日常こそが幸福なのである」という陳腐で教条的なソレとは違う感覚なのだ。と。そして、この思いは誰にどう言えばいいのかもわからない。

この部分は自分にとって本当に鮮烈だった。

ともかく、雑多に流される現実の生活に飽き足らぬものを持つ砂羽は戦争のドキュメントを見るのが好きだ。好きというよりは見ずにはいられない、そういうべきかもしれない。世界各地の紛争、それに巻き込まれる名もない被害者である市民・・・。

なぜ、わたしはこの人ではないのだろう、と思う。殺されていく人がこんなにたくさんいて、なぜ、わたしは殺されず、倒れて山積みになっている彼らではなく、それを見ているのかと、思う。

このまま悶々と話は閉じてしまうのだろうか…そう思った。が、後半ある情景が登場することで、わたしがわたしであること。わたしでしかないこと、が、しっとりと染み入るように主人公の胸に落ちる。不意に感動的である。

そして、私たち読者の胸も推理小説のような面白さとは異なる面白さでジワジワと満たされる。良い小説だった。たしかに豊崎氏のいうように3.11を経たがゆえに生み出された深い小説であると思う。

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夜、長い坂道をまた歩いた。ポツリポツリと雨が落ちてきた。夫婦とおぼしき二人づれウォーカーとすれ違い、長い髪を振り乱す女性ランナーともすれ違う。

汗だくのTシャツを脱ぎ、私もまた電車に乗り込めない一市民として眠りに就く。