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日々のタワゴト                  

人、その日々は、草のよう

人、その日々は、草のよう、その盛りは、野の花のよう


まずは、この一節に、非常に心惹かれた。これは、おばあちゃんが、フトつぶやいた言葉だった。

ほしおさなえ『夏草のフーガ』(幻冬舎)の帯には

おばあちゃん、
どうして、
十三歳に
戻っちゃったの?

自分を中学一年生だと思い込む祖母。父と別居中の母。入学早々失敗した私。三人の人生のつまづきに、祖母のある言葉が絡み合い、切なく悲しい過去がよみがえる……。

と、ある。

主人公、「夏草」は、おばあちゃんも通っていたミッションスクール望桜中学に入学したばかり。そんな矢先に倒れたおばあちゃん。意識が戻ると、おばあちゃんは今の自分と同じ十三歳と思い込んでいる。ある日、夏草は教師が席を外した隙に命じられた聖書の朗読をサボった同級生の行動にわだかまりを持つ。それがキッカケで教師に同級生が朗読をしなかったことがバレ、夏草は同級生のことを言いつけた卑怯なヤツとしていじめを受ける。学校に行けぬ日々を過ごしながら、祖母の異変をなんとか解決しようと、中学の図書館でアルバムを調べるうちに、知らなかったおばあちゃんの過去が見えてくる。

タイトルに「フーガ」とあるように、祖母、母、自分、それぞれの人生の迷いは、追い駆けっこをしているように不思議に絡み合ってくる。そして、祖母の趣味ヒンメリ(フィンランドの室内装飾品工芸)、祖母の信仰への鍵を握る人物、聖書の言葉、父と母との関わり、夏草自身の揺らぎ。これらが、あいまって少しずつ解されてゆく。家族の歴史の謎解きへの興味が頁を繰らせる。その辺が私が感じた高楼方子『時計坂の家』との類似点でもある。

家族のことって、意外と知らないものだ。その家族が亡くなってしまったら、それらの記憶は永遠に閉ざされてしまう。私自身も随分前に、そう思い、父が白内障の手術で入院した折に、インタビューしてみたことがある。短い時間だったけれど、知らなかったことがいくつも出てきて面白かったものだ。

ラスト近くに出てくる祖母の、ある人物への手紙には、こうあった。

人、その日々は、草のよう、その盛りは、野の花のよう。あなたはそうつぶやきました。なんですか、と訊くと、詩編の一節だとおっしゃいましたね。はかない被造物としての人間をあらわした一節で、神のあわれみの深さをうたった詩の一部なのだ、と。あなたがなぜヒンメリを見てそうつぶやいたのか、真意は訊きませんでした。でも、なぜか、ヒンメリのわらを見ていると、その響きが胸に迫ってきました

いつか死ぬことを知りながら、風に吹かれ、陽に照らされて生きている人間の儚さと健気さがキラキラとした物語だった。

驚いたのは、読み終えてみると、私は、この著者の作品をすでに読んでいたということだった。「ほしおさなえ」さんは、「大下さなえ」という筆名で詩集を発表されており、その一冊『夢網(むもう)』というのを私は読んでいた。読み返してみると、やはり網の中でせつなくもがく若き女性の葛藤が描かれている。この本の半透明の表紙も、苦しいけれど、美しく連綿と続く人の生という点で、どこか『夏草のフーガ』とリンクしているように思った。