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日々のタワゴト                  

このところ

▼ある日

雨のそぼ降る深夜にPCに向かっていると、猫が一匹、また一匹と帰ってきた。兄貴分のトトは湿っているといった程度で、数分後に帰宅したタラはずぶぬれだった。濡れた毛が小さな束を作り、さらにそれらがいくつか一点に向かって集まる。体全体を見れば、縦縞の△が体中に張り付いている感じ。そして白い地肌があられもなく見える感じ。頭髪の薄い人がうっかり泳いで水からあがったような。憐れを誘う姿だった。手ぬぐいで拭いても足りず、バスタオル(主に夫が使うやつ)で拭いた。ウナギを捕まえようとするときのように、、拭いては逃げ、拭いては逃げするヤンチャ坊主。もう勝手にしな、と言いたいがふとんが汚れるし根気よく拭いてやった。

▼ある日

twitterでたしかヘンリーヘンリーズの子が枇杷を食べた、と書いていた。それを見て武田百合子の描写した枇杷を思い出し武田百合子監修『イメージの文学史 物食う女』(北栄社)をパラパラと眺めた。こういう二段組みの本は、本当にもう読めない。老眼というのは精神まで老化させる。すなわち新しい情報を受け入れがたくなってくるという意味で。さらに、そこから武田夫妻と仲良しの埴谷雄高に連想が飛んだ。実は自分は『死霊』を読めていない。大学時代のあこがれの先輩ハナシロさんが『死霊』を読むべきと貸してくれたのだったかもしれない。とにかく、あの黒い重厚な感触は覚えている。しかし、内容はと言えば、これがカラッキシ覚えちゃいない。観念的で難解な言葉に全く魅力を感じず簡単に投げ出してしまったのかもしれない。ハナシロさんは団塊の世代の残党のような人だった。九州の大学を卒業、もしくは中退して地元の大学に入り直したので6歳も違うのに私とも出会ったのだ。今思うと骸骨に眼鏡をかけたようなヒトで、どこが良かったのかサッパリわからない。。。YouTube
を見始めるとドンドンキリがなくなり見入ってしまった。

長い目で変わらせるのが文學。僕は、やっとかなくちゃいけない。僕の文学は自分の思い出を書いてるんじゃないっすよ。人類そのものを変えてやろうとして書いているわけですよ。ということは政治も変えてやる。上手くいかないだけの話  独白11より

この生真面目な大真面目な夢想家は彼の高尚な思想とは全く別に愛すべき存在だと感じる。この番組はDVDにもなっているようだが、たとえば百合子さんが存命なら、副声音で茶々を入れてもらったら、随分楽しいだろうなぁと思う。

▼ある日

またしても配達中にスクーターが動かなくなる。翌朝、乗り捨てた場所から自転車屋に運ぶ。マフラーから黒い煙が出て走るようになったとのこと。高い部品なんだがマフラーを交換してみることにする。これで今月分のバイト代がパーになる。

▼ある日

スタジオパークを見て、ケメコちゃんの苦手な椋鳥の囀りと育子(満島ひかり)の声の共通点を発見し、所謂膝を打つ感じ。

書き忘れていたけど。『奇跡』で出てくる鹿児島中央駅が大変懐かしかった。まえだまえだの兄ちゃんが立っていたアソコは、私の五十路一人旅でピンクの巨大バッグをかついで登った長い長い階段だった。