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日々のタワゴト                  

花のようであれたなら

▼ある日

下の娘から「朝ごはんのデザートに昨日作ったシフォンケーキを食べました。うまし」とか「アルパカ見てきたよ」とか写真入りの電子手紙が来る。能天気な日々を過ごしている。実習と実習の隙間は基本卒業研究を行うことになっているのだが、アイツは本当に大丈夫なのだろうか。

▼ある日

配達先のJ隊では、新入隊員の訓練姿を毎日のように見かける。銃を肩に整列したり匍匐前進したりしてる。街で見かけるようなふにゃけた表情の若者は見られない。ピリピリとした真剣な様子は遠目にも伝わる。ビリーはいないけど怖い人がそこにいるのって引き締まらざるを得ないのだろうな。きっと彼らも休日の街では、存分にふにゃけていることだろう。

▼ある日

一歳ちょっとくらいの坊やとお父さんのお散歩。階段を一歩一歩登る乳くさげな幼児。白いほっぺがやーらかそう。思わず「かわいいねぇ」と声をかけてしまう。赤ん坊を見ると話しかけずにいられないのは、お母さんの年代ではなく、そういうものに遠ざかったばあちゃんが多い。私が話しかけた。すぐ後に後ろの方でばあさん集団がさんざめく声がしていた。あの子もおちおち歩いていられなかろう。

▼ある日

2005年発行の幻冬舎アウトロー大賞受賞作 塚田努 著『だから山谷はやめられねえ-「僕が日雇い労働者だった180日-』を読み終える。

大学での生ぬるい生活から、一足飛びに就職する気になれず大学院生となった著者が山谷や飯場で働きながら書いた人間観察記。

「今日なんとか暮らせたらそれでよい」という、その日暮らしの労働者たちは、私にとって気持ちの上でとても近しい感じがする。酒やギャンブルに明け暮れるもの。そうではなくても、ある程度働くともらえる「アブレ手当」なる日雇い労働者のための失業手当のようなものを当てにしながらカツカツに食べてゆけば十分というやる気のなさが、非常によくわかる。著者はまだ若く、どこか毛色が違うことも伝わるのか、再三さまざまな人にこんな暮らしをしていてはいけない…と助言されている。自分らは、もうこれ以上は望むべくもないが、本当は、こうじゃいけないんだ、人は、もっと何か長期的展望に立った「良い」暮らしをすべきなんだ。そう信じているのが、どこか不思議であった。嫁をもらい子をナシ、家を建て・・・そういう暮らしは、本当に彼らの人生より価値があるのだろうか?

私は、どこかで、どんな人の人生も同じなのじゃないかな?どこかで収支決算±0なんじゃないかなぁ……そんな気がしてならない。

でも一生懸命はやる。それは、ただそうしたいから。

▼ある日

配達の途中、やっと色々な花が見られるようになった。今は、あるお宅のカタクリが開くのを楽しみにしている。花はいいなぁ。そこに生きているだけでこうして誰かを和ませている。