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日々のタワゴト                  

愛と胃袋

▼10/19月〜10/20火

実家へ。父を床屋へ引率の任を受けて峠を越えて走っていった。だが、姉が予約の電話を入れると第三週は月・火が連休ということで、全くの役立たず。三食御飯を一緒に食べて会話。

姉と買い物からもどると、コクワがテーブルにあり、義兄がもらいものだと勧めてくれる。最初は「いやだ。気持ち悪い」とか言っていた姉も「うまいんだって、いいから食べてごらん」「サルナシって言ってさ、今やベビーキウイとかっていい値段で売られてるらしいよ」と兄と私に言われて口にするや「ああ。そういえばルサンの裏山にあったわ。と記憶の回路が繋がった様子。我が家では山猿のような夫がいるので、食べたり果実酒にしたりでサルナシはお馴染みだ。お昼に起きてきた父にも「ほら」と勧めると「おお、なつかしいものあるな」と一粒つまんで目をつぶってウン。ウン。というように食べていた。

相撲の映像が流れて、
「そういえば昔はさ、この町でも相撲やってたよね。どんぐり広場かどっかで」
と四十数年前の話になる。
父も「おーおー」と頷いている。親戚の宿にも「おすもうさん」が大勢で泊まっていたのを微かに覚えている。
「・・・してさぁ、おにぎりを注文されてさぁ大変だったんだから」当時、我が家はジンギスカン屋を営んでいた。六歳上の姉は、まだ五年生か六年生だったが重要な戦力として手伝わされたことを覚えていると言っていた。
「もうね、何回炊いても握っても握っても終わんないんだわぁ」

家業は時代時代で変化していったが、常に商売をしていたこともあり、私たち姉妹は、ほとんど母に御飯を食べさせて貰った覚えがない。だから、姉が支度をし、日々貧しい食事をしていた。そのためか私たちの偏食は酷いモノで、野菜という野菜を口にしなかった。魚肉ハム、バター御飯、牛乳かけ御飯、納豆御飯、赤い魚(鮭)、サンマの蒲焼き、かけごはん(親子丼もどき)、チャーハン、ケチャップを使わない変わりオムライス、豚ロース焼き、ジンギスカンなど、ゴク限られたメニューで生きていた。
「よくあれで栄養足りてたよね」
「ひどいよね」と笑う。そして給食の時間に苦労した話になる。

今日も昼にあんかけ焼きそばを作ってくれた。少し少な目だなと思いつつ食べ終えて食器を下げにいき「ごちそうさま」というと、「まだ、だめ。今、もう一種類できるから」と挽肉ともやしの焼きそばが出てきた。ナニシロ全く食べさせたがる。

帰りは帰りで冷蔵庫を開いては「あれもってけ、コレももってけ」と、食べ物を持たせようとする。

そんな今日、プレミアム8で角田光代バスク地方の旅を見た。食べることと家族の結びつきが非常に深い地域であることに関心を寄せていた。そして数年前にお母さんの余命を宣告されたあと、初めてひとりでイタリアンレストランに行って、きっちりとコース料理を食べたのだ、という話をしていた。母の口癖は「ちゃんと食べているの?」ということであり、執筆に夢中で食べていないんじゃないか、スナック菓子などの、その場しのぎのもので済ませているんじゃないか。いつも心配していたから。と。彼女のいう「家族を持つと言うことは、その人が腹を減らしていないかどうか、いつも、それを気に掛けるようになるってことじゃないか」という説が、素直に浸みてきた。地域や家族から逃れようとして出てゆく登山家の女性のイメージと御自身の御母様への想いを合体させた原作に基づいた短いドラマもとても良かった。副題には「愛と胃袋」とあった。