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 日々のタワゴト                  

楔を打つな 



▼4/25〜26 


昨日読んだ1Q84のある部分に、「ふかえり」の書いた字についての形容が出てくる。「楔形文字のような文字」という表現である。ここを読んでいて私は、ある人の字を思い浮かべた。それが「楔形文字」に似ているわけではない。私は以前の仕事のことは、なるべく思い出さないようにしている。だが、あの文字については見掛けるたびに非常に気にかかるナニカがあった。たしか一度日記にも書いたことがあったように思う。葉書に書かれている、その文字は、縦長で小さくて隙間(行間も列間も)が著しく広い。初めて見たとき「!」と、目を引きつけられ、そしてしげしげと眺めてから(雨だれのような文字たちだ!)と感じ不思議でならなかった。よく呆れた行動をする子供を見たときに「親の顔が見たい」と表現するが、あの文字には、その文字を書いた人の顔がみたくなるような、そんな作用があったのだ。背景を想像させるナニカに出会うのは生活の中の文学だ。

昨日・今日と休日で人出が多そうだったので、コースを逆回りした。昨日は7kmほど歩き、今日は二周。なのに歩数は昨日10050歩、今日が11900くらい。なぜかは知らない。私の場合、筋肉痛が発生するのは、もっぱら向こう脛と足首。歩き方と靴の所為である気がしている。

昨日は、大まかに言って・歩くこと・読むこと・眠ること・食べることに一日の大半の時間を費やした。獣のように寝てばかりいた。おかげで夜は、全く眠たくならず。カボチャになってしまった馬車で街をうろつき、深夜便でジュリーの歌の数々を懐かしく聞いた。ひとつ一つの曲の思い出を、衣服の縫製ぶりを確認するかのように、まざまざとなぞってしまった。

今日は公園で歩いた他は、ほぼエネエチケーの短歌番組を見ていた。が、概ね、審査員の深読みや誤読(あくまでも自分基準)にムズムズ。高橋源一郎撰・・・は、どれもビビビと来た。驚きのない上品な「妥当性」をむしろ憎む。「その事実が詩的である」ことと「歌が良くできている」ことは必ずしも一致しはしない。だが、事実は強し。誰もが納得して同じように感じ評価することの方が不健全。何事も読み手の嗜好と老人力のような深読み力(昨日他の赤瀬川特番見たとこ)次第なんだ。文学に普遍的に妥当な絶対評価なんて。