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日々のタワゴト                  

あうとぷっと



▼1/30 水

つまるところ、「入れて」→「出す」これなんだ、という仮説。生きているのは、入れて出していること。端的には食べて出すってのもあるし。

自分のような山師のバーイは、テレビを見る・本を読む・ラジオを聞く・音楽を聴く・絵を見る・映画を見る・ヒトと対話する・・・等々の「入れる」行為に対して、排出する行為としては、ヒトとの会話・仕事・家事・こうして文を綴ることなどがある。これで博打的には「いってこい」、とか「とんとん」とか・・・つまり貸借が0ってコトになっているんじゃないのかと思う。

仕事や家事は「出す」に当たるのか?という疑問も残るが、たとえば叱られて腹が立ったときにドアをバタンっ!と閉めるなどというのは、感情の発露なのだから、動くというエネルギーの消費は、明らかに「出す」だといえる。「書く」ことは典型的な「出す」だし、この出し方で自分も安定を保っている。

しからば、超無口なウチの配偶者なんぞは、溜め込むばかりで「出して」おらんのか?つらくないのか?逆噴射しないのか?という疑問を持ったことも多々ある。結局、彼の場合は、外から見るとわかりにくいカタチで、やっぱり出しているんだろうと思う。具体的な行為、土いじりをする。とか、雪を投げる(除雪のこと)とか、家の外周を工事するとか、そういう「実」のある行為によるエネルギー消費。感情を直に出すワケではなくても、そこには、彼の中のある種のパッションが読みとりにくいカタチで「出されて」おるのであろう。赤外線(?)で真っ暗な所を見るとちゃんと物体が見られるように、なんかの光線で、たとえばシンチャン(夫)の除雪した雪山を見ると、あの人の考えてることが読み取れたりして。買いますよ。それ開発してる方がいらしたら500マン(安っ!)までなら出します。

まったくもって、あたしゃ本読んだり、しょうもない日記書いたり「空疎な言葉」ばかりの人生でイイのでしょうか?・・・・・・・・・



イクナイ!

って結論つけても、空しくなるばかりなので、イクナイコトナナイんだと、いやむしろ、もっと積極的に

「それはそれでインデナイカイ?だってそれしかできなんでしょ」と、今日のところは話の緒を結んでおこう。でも、仮説だから。