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日々のタワゴト                  

生老病死



▼6/23 土

今日の仕事を終えたら、明日は休み!ということを支えに一日頑張る。何がツライって、配達を終えた後の時間の長いコトよ!はぁ〜。今の1.5倍くらいの配達だと、夢中でやっているうちに終わるに違いないのに。

仕事後は、娘らと映画に。本屋で待ち合わせ。

「スグに買ってくるから」と、言い置いて2冊購入。

目黒さんのオススメと、谷川氏の三部作の残り一冊。

娘らが洋服を買いに行っている間に、椅子に座り込み

『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を読み終える。ワシにとっては、麻薬のような呪文だらけの本であり、この人でしか味わえない快感とグロさ。簡単に言えば、この本を読むのは「巣鴨のとげ抜き地蔵を、お参りしてお札を買う」ようなこと。

>>「たまごっちがあれば」

「わたしは使える、時間を楽しく、病院で待っているときも、空港でも、飛行機の中でも」

「すべての日本の少女たちはみな例外なく持っている、たまごっちを」<<

と、こんな具合に、娘や夫の英語を直訳した言葉がずらずらと出てくる。その硬くてこなれない日本語が、また面白みとなっている。長女も次女も、どこかしら病んでいるのだが、その元凶は、これまた日本語と英語の狭間に生きるというか、日本人と西洋人の狭間に生きることの困難さに発しているやに思える。つきつめれば「私は孤独だ」ということ。理解されたい、でもりかいなんかできっこない。ということ。末っ子に、なんとしても日本語を完全にマスターさせようと、彼の国と日本を行ったり来たりして悪戦苦闘している姿は、もはや悲痛。やはり詩人ならではの感性で、言語をツールとして見るのではなく、言霊の宿るモノとして「頼みの綱」にしている感がある。呆けてきたお母さんとの会話なども、面白悲しく、リフレインに満ちた、それらは「詩」のようであり「(祝)詞」のようでもある。そこでどんぶらこっこすっこっこと、楽しめる派と、完全に悪酔いする派が居るに違いない。でも、売れて欲しい。

『死を想う』は未読だが、最近の伊藤比呂美のテーマは「生・性・死」に集約されそう。生きているねずみは素手で捕まえられるのに、死骸だけは絶対に触れない、という著者は「死」を死ぬほど恐れている。それでいて、それを見定めたくて動物を解剖するみたいに、血糊やゲロや排泄物にまみれて「死」を探している。そして「生」も「性」もしかり。

1.なんだって人は!こんなにも苦しみながら生きているのか!?

2.滑稽にも性を営み!子をなし、繁殖し!それを育て!

3.病を得て!老いて!そして苦悩しどおしで!死んでゆかねばならないのか!?

そういうことが、連綿と書き連ねてある。

「おなかほっぺおしり」に始まる育児エッセイシリーズがそうだったように、それを読む人は、知らず知らずに、それらの苦悩から救われる。私も、どうにかして、これらの疑問の答えを得てみたい。疑問を共有したい。と、思い、この人を読み続ける。

ラストが、突然に感動的だった。

苦悩に満ちた娘たちが雪遊びをしながら「きゃーきゃー」と、叫声を発する。その笑い声や言葉が「生きている生きている生きている!」と、聞こえるってとこ、泣けた。


死を想う―われらも終には仏なり (平凡社新書)

死を想う―われらも終には仏なり (平凡社新書)

映画は「舞妓haaaan!」笑える部分もあるし、周囲は、たいそう受けてもいたのだが、どうも、自分はクドカンの突飛な世界から置いてけぼりを食らわせられる。ただ、単に歳なのか。さびしいものよ。