口裂け女じゃあるまいに
▼4/28(土)
昨夜、帰宅してからも2本飲んだようで、やや霞のかかる脳内。
眠い。のに喉が渇く。しかたなく起きて水を飲む。お腹の調子もイマイチ。でも、別に気持ち悪かったりというのはない。
夫の送りで職場へ。弁当を作る気力はなくコンビニに寄る。カフェラテ・おにぎり・しじみの味噌汁購入。
今日は試しに二輪に乗ってみるつもりだった。班長に打診して空き二輪を借りる。どうかな。大丈夫かな。一抹の不安。冬に乗ったときにはギア操作が、あまりに上手くいかず、スクーターにしてもらったのだった。今度は、でかい長靴も履いていないし、ステップも曲がってはいない。きっと大丈夫。
今日もコダテ快調。目の動かし方が、やっと板に付いてきた気がする。もう誤配は、せぬぞ!10時半コダテ終わって、郵便物の宛名書きをして、裏から窓口へ。
薄手の外套を来て出たものの、暑い!
カーブが最高。カラダが傾斜する恐怖とそこからスイッと立て直す心地よさ。「死」の淵から「生」への疑似体験なのかもしれぬ。アル意味「イッチャイソウ」な快感なのではないか。
20丁目から18丁目の配達もサッサと終了。111区の事故処理53件・112区が83件。
目にクル。そもそも、こういった細かい作業は好きではない。頑張った結果、定時に、あがれた。なにか終始テンションが高かった。かすかな酔いと寝不足のもたらした微妙な高揚。
帰り道、C図書館に寄ってもらい、返却と貸出。5時閉館を知らずにサササッと見繕っていると職員がやってきて「閉館いたしました」と告げた。それはそれは気付かずに失礼致しました。と、本を棚に戻そうとすると「まだ電源は切っていませんので・・・」と仰る。借りたのは以下。
現代詩手帖2006.11月号特集「谷川俊太郎の詩論」現代詩新人賞発表/雑誌シナリオ 長い散歩/是枝裕和『花よりもなほ』の参冊。
早速、車中「いま詩をこう考えている」詩論三部作をきっかけに谷川俊太郎×四元康祐(ききて)を読み始める。
やはり面白い。
・詩をつくりたいという気持ち=コスミック(宇宙的)な生命のあらわれ
・詩をつくらねばならぬという気持ち=ソシアル(社会的)な人間のあらわれ
という谷川流の考え方が興味深い。ここには、いわゆる詩のようなモノのもつイヤったらしさの対局にある谷川詩のエッセンスがあるのかなという気がした。「ワタシキレイ?」「ネーキレイデショ?」とか「ドーダイ!?俺様の哲学は?」というオゾマシイ自己顕示に支配された詩には自己が宇宙に落ちてきたものである二元論の自覚がない。ガクガクっと揺さぶって正気に戻したくなるような詩を書く人は多い。(自分も含めて)
「他人にはトーテー受け容れられない世界」ではない、別の土俵に、彼は読者を連れて行ってくれる。そこが偉大。「気取らない・威張らない・冷静な詩」は希有だ。自分を他人事のように語る詩。
詩とはなんぞや!言葉とはなんぞや!詩の欺瞞性はいかように暴くことができるのか!
詩を書いてメシの種にする俺には一人の女に「本当の言葉」をぶつける誠実すらないのか?
なんてことにこだわる詩人。。。そもそも人間は嘘つきなのだ。「ワシハウソツキダ」ということばも「ワシハウソシカツカナイ」という言葉も成立しないように、本当のことを語るには出任せで外堀から自分を埋め込んで、石膏取りするしかないんじゃないのか!
夕方より明日の打ち合わせ。錯綜する電話とメール。
混んでいて無理なのじゃないか・・・という指摘があり予定変更。風呂なしコースに。もしや来れない?とYナギに電話。散々長話に。彼女の大学時代の学友達の奇天烈な人生に驚いてみたり。半年振りに話せて嬉しく思った。