2002/07/06 (Sat)
書く人が山のようにいる。
私までが、こうしてグズグズと何かを書いているように、世には、ありとあらゆる文章が溢れている。
自分にとっては、長いこと「なぜ自分は読むのだろう」ということが課題だった。数年前からは、これに「なぜ自分は書くのだろう」ということも加わった。
随分前に、姉のお舅さんが亡くなった時に絵入りの随想録が出てきた話を日記に書いたことがあった。
遺族は、それを心のよすがとしてしみじみと読んだ。
その時、私は読む側として、その絵と文章を「かけがえのないもの」と感じた。(よくぞ書いておいてくれました)と、姉やおじいさんのこどもたちや孫たちの気持ちで、そう思った。同時に、父や母のことを考えた。長い間、目の前にいたけれど、自分はあの人たちの人生も考えていたことも何にも分かっちゃいないよな。もっと話をしなくては…とも。
大切な人を失ったとき、その途絶えた繋がりというのはあまりにも中途半端だ。かつて読み進めていた本が、ふと気付いたら途中から千切り取られてしまったような、そんな感じ。
「私は、まだ充分に彼という本を読み切っていなかったのに」そんな思いに囚われ、気持ちの持って行き所がないのでウロウロしている。
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実際、私は知りうる限りの彼の残したことばを逐一反芻した。
それだけでは足りないので、みんなが彼への思いを綴ったものを求め、あちこちの掲示板を何度も訪ねている。彼の残したことばに感謝しながら。
「この理不尽に、なんとか折り合いをつける」ことのために。
きっと葬儀というの自体、人が、そのためになし得る一つの工夫だったに違いない。
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しかし
ときに私たちは、生きていても死んでいる。
自分を「まだ読まれていない書物だ」と感じる時に。
それで、私たちは
虚勢を張ったり、誤解を恐れたり、良いところだけ切りとったり、悪ぶったり、辛いのに笑ったり、隠れたり、書くことで己を律したり、怒ってばかりいたり、微妙に屈折しながらも自分という書物を読まれたがる。
そしてまた
世の中の人々や事象は、読み切っていない書物ばかりなので、それらの前で、ときに私は死んでいる。
生きたいので、知りたいので、繋がりたいので
飽くことのない欠食児童のように読んでしまう。