夢を見ている間。夢の中。夢裡ムリ。
自覚を失うこと。我を忘れること。「―で逃げる」
物事に熱中して我を忘れること。「ゲームに―になる」「無我―」
何かに夢中になったことがない人がいるだろうか?それがゲームであれ、勉強であれ、夢中になるのは人として必要なことだと考える。
瞑想は、無になることだと言ったりするが、凡人が「無」になるのは極めて難しいことである。
何も考えない、雑念を払うということは出来そうで出来ないことだ。
だから、一般的に瞑想の一つの方法として何かに意識を集中させるということを行う。それが、経文を唱えることであったり、写経であったり、あるいはロウソクの炎を見つめることであったりする。
宗教的儀式においてなされる、踊るということ、真言を唱えるといことが間々行われるのには人間の脳の意識を何かに集中させることで、別の部分に何かしらの空白をつくるという働きがなされるのではなかろうか。
長距離を走ること、山を登ること、絵を書くこと、書をしたためること、音楽を聴くこと、炎を見ることなどによって癒されるのは、この働きがあるからではないかと想像する。
始業前に、15分間読書をするという試みを行った学校の活動が報告されている。非常に生徒たちは落ち着き、ある種の活力が生まれたといいます。
学術的にそれを証明は出来ないが、判るような気がするのです。
現代人が、かくも病んでいるのは、静謐な空気の中で、心惑わされることなく何かに集中する機会を作れないことにあるように思うのです。
画家に長生きの人が多いことに気づいて、それは、呼吸法にあるのではないかと考えたことがあったのですが、むしろそれは結果かもしれません。何かに集中し、α派が出ている状態は、必然的に代謝が少なくなり、呼吸数も少なくなるのです。
そして、それは精神の平安をもたらします。
私たちが子どもの時代に遊びで得たものも、夢中になること、ひとつの集中、無我の境地ではなかったでしょうか。
P.S.私はいかなる宗教にも帰依するものではありません。