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日々のタワゴト                  

幸田文 講演会 その③

そういう風で出逢いがありました。

もうひとつ肉親との出逢いを申しますと、父はなんせ私は「どうも、ちょっとお前は鈍いね」って、こういう風に言いましたね、バカだとは言いませんでしたけども、姉に比べると、ってのは本当に私嫌だったんですけども、この父の兄えある伯父っていうのに私は愛されました。伯父っていうのは、元海軍の軍人でしてね、北の海からお魚を獲ってきて日本の国の食糧を豊かにしようっていうことを試みた人でした。それですから、いつでも北の海でシャケとカニと追っかけてるわけです。ね。それがですね、ある時私にこう言いました。お前は、女の子だけどもピンピンして勢いがあるから
お前がもし男だったら俺は今お前のお父さんに話をつけて貰ってってお前を船乗りに仕立てる。良い船乗りになるぞう!って言った。嬉しかったですねぇ。三つ栗の真ん中買われちゃったじゃないですか。これ嬉しかったっですね。私その伯父に感謝致しました。伯父が川の側で夕陽を浴びながら話をしてお前がな男だったら俺は船乗りに仕立てる船の上しか歩くところはなくて、あとはみんな水で船の下には魚がいて、そして頭の上には風が吹いて空があって太陽があるんだって他にはなあんにもないところに連れて行きたい、子ども心でもって勇気凛々として、その伯父さんについて行きたいって思った。後に私、この叔父さんが亡くなってからなんじゅうねんもたってからです、戦後私の父も死んでからです、どうしてかこの伯父に買われたために私は一度身の回りに丘の見えないところに乗り出して魚獲ることやりたいと思ったんです。そしてとうとう鯨獲る船に乗っかっちゃったの。ただ北の方じゃないですけどね。鯨獲る船乗っかってね 鯨いました。鯨とったんです。いえ、私が獲ったんじゃないですよ。漁師さんが獲ったんです。それをね、曳いて帰ってきた時にね、どっこまでも風と波ばっかりだったけど、私伯父さん子ども日に文子買ってくださったけれど、今やっと丘の見えない海へ乗り出してお魚採獲ってきました、おじさん買って貰ったことだけは果たしましたよ、応えましたよってことだけは気持ちよかったですね。ホンット果たしたって伯父に愛情に応えたって気がしましたけどね。こんな出逢いもございます。特別なことではないけれど肉親でこんなこと他にも他にも色々ございますけれども、まあこんなことで

私のウチは学問芸術の家です。それですけれど私は学問縁がない女です。現在も学問からは離れた世界にいます。それからまた芸術もわかりません。ですから父に疎んじられたのも仕方がないと思いますけれども、そうした中でとにかく私はこんな風な出逢いをひとうひとつ人並みに重ねて学問芸術の世界には疎くても離れていても、人並みに出逢いというものにはいくつもいくつも出逢ってきました。その出逢いの中にも色々ございます。思ってみますと出逢いがあって感動があったところに私の力を作り成してゆくものがございました。

振り返ってみるとみんなそうです。伯父が買ってくれた 感動で私は力をもらった。ここに生きるところがある 姉が利口だったことで私は悲しい思いをしたけれど植物学者に仕立てようとしたって、羨ましいなってことがあって植物のことが離れませんでした。さて、話は飛びまして戦後一番大きなであいというのはの前にモノを書く鉛筆が転がってきたってこと
物を書くって原稿用紙だの机だのって、私は父の世界の物であって私のタッチするものではないと思って44歳まで生きてきた。それが降ってきて父の文章を書けって言われたんです。 それで私はその時になんだあ親父さんの毎日してること書きゃいいんだってなんもなくヒョヒョヒョイと書いたの。とこれが活字ならないうちに父親は命を終わりまして 八〇歳で亡くなりました。ですから、それはなんだか妙な形で活字なったわけです。これがきっかけで私は物を書くようになったんです。その鉛筆は私が望んで持った鉛筆じゃない。向こうから転がってきた鉛筆。で、

私のウチにはこういう教えがございました。出されたお皿は頂戴してみろ。食べず嫌いだのはにかんだりして断っちゃいけない。殊に女はそうだ、知らないものを出されると・・体裁作ってへへへへって これはとんでもない。頂戴してみろ。頂戴して、どうしても飲み込めなかったら吐き出しゃいい、ってんです。そしてそん時にただ吐き出しちゃ無作法になるから教えといてやるけど、私には頂戴致しかねます。これにて御免こうむります。って言って帰ってくりゃいい。出来の悪い子はお終いまで教えなきゃダメなんですね。ちゃんと口上まで教わったんです。これにて御免こうむりますってって帰ってこいって。だから私、鉛筆転がってきても食いついたんですわ。出来たって出来まいとそんなこと知っちゃいません。ここに耀として出て来たんだからコレやろうって、それが鉛筆が転がってきた さて、そして後を望まれますと父親って人は八十歳まで文学一本で通してきた人ですから八十一年だけの蓄積はございました。これ貴方書く材料としてはなかなか強いんですよ。一生一業でやってきったってのは色んな財産がございます。

ですから、それとっととっと書いていきます。つまり思い出屋です。だけど思い出ってものは新しく創造することは出来ません。書くだけ書いたらタネがなくなります。昨日までは雑文書き。あのね、三枚の雑文書いても、雑文書くと途端に先生って呼ばれますのよ。驚くべきことですよ。昨日まで女将さんでいたものが先生ですよ。一番驚いたのが私の娘ですよ。いいのかい。母さん良いのかい、先生なんて言われちゃって良いのかい。だってしょうがないじゃないか、断るわけにいかないじゃないか、ってことでやったんです。材料がなくなったら先生困るじゃありませんか。カッコが悪くて。で、私少しノイローゼになりました。そしたらそこへ来ると悲しいかな学問も芸術もわからないものがズカっと行き詰まって悲しい思いでさりとて、この出来てしまった先生の座っての、どうして良いかわかんない。それで私ノイローゼみたいになりましてね。そして少し休んだ方が良かろうということになり、箱根に参りました。五月でした。箱根の山、とても青くてきれいでした。それで山の上の方、静かな宿に泊まりましてね、そこでぶらぶらしてました。そして宿の人がご退屈でしょう、この先の山いくとすごく良い鶯の学校があるこの鶯は毎年新しい一年坊主の鶯に歌を教える学校があるらしい、そしてそれが五月だってのに鶯泣くんですかってったら
つまり宿の人は私を慰めてくれた。私は 登ってきました。格好は見えないんですよ。あけど大変な美しい声。ほーって鳴き出すとねわかっちゃうの。彼だか彼女だかの喉がまーるいんじゃないかって。ほんっとに柔らかいまーるい声。それがホケキョって鳴く。それはそうですよね。ホケキョって鳴く、それがなんっとも 重ねるようにケキョケキョケキョ…そうするっともうたいそう細く鳴く。ケキョケキョケき。そうすると山が 音が 私の胸ん中で鶯が鳴いてんのに、たしかに耳に聞こえてんですよ。そして目を離してみると向こうの遠い山から五月の風が吹いてきて青い草がこうやって揺れて、それがだんだんだんだん下の原っぱに行って原っぱの草がこういう風になって私のとこまでその風がきて頬の両方と足元と吹いてったんですよ。五月の風の中 ケキョケキョケキョケキョ。アタシ いいもの聞いたと思いました。そして感動しました。その時にちょっと心が晴れましたの。先生もへったくれもあるか。学問も芸術もわかんない一人のただのお婆さんなんだ、そんなふうでいいじゃないか、こうやって感動することが出きるんなら、これは私の宝だ。良いもの聞いて感じたじゃないか。感動したじゃないか。出て行きゃ感動かなんかあるんじゃないか。そんな風でいいじゃないか。それだったら何にも言うことないじゃないか。私はもうノイローゼでもへったくれでもなくなって帰ってきました。そして元気に暮らしました。感動ってものを探せばいいんだ、私にあるものは何だろう。学問もない芸術もない。後ろ盾になるものは何もない。だけどここに行きている命の体があるじゃないか。そして私はそれを目で見、耳で聞きそしてそれを感じる感覚、五感っていうものを備えてるじゃないか、それだけありゃあたくさんじゃないか。って気がいたしましたの。気が強いですか。そ。気が強いと思います。だけど五感だけで生きていくのは、か細く生きなけりゃたならないなと思いました。だけど
もうひとつあったの。鶯から学ぶことことが。そうなんです。笛のこと
細い息でも 詰めてフーって吹けば、その管の中から音が出る。そんなら私は細く暮らして五感だけで そして の中からか細い息でも立てれば、それで此処に私の存在ってものがあるじゃないか、とどうでもいい。こういう風でやって行こうって思いました。このウグイス私大変うれしくて五感しかない。いえ五感があるって、それだけの
財産て本当に少ないけれど心の糧にして生きていくようにしようと思いました。ところでそうこうしているうちに私歳とってきました。六十を過ぎて